挫折を乗り越えるとき、今までのマイナスの全てがプラスに変わる。
『フェニックスと呼んでくれ』西日で溶けたアイスクリーム。
挫折、その時点で、まず乗り越えようとする発想すら奪われてしまう。
それでも、小突かれながら蹴転がされながら必死に人生にしがみついて、暗く深いモヤのなかを手探りにでも歩んでいると、少しだけ、ほんの少しだけ、視界が晴れるときが来る。
そのとき、本当に大切なのが、ここまで手探りにも歩んでこられたことそのものを、自分の奇跡の力として認識できるかどうか、なんだ。
もがいて足掻いてふり払ったのか、モヤが晴れるところまで歩んで来れたのか、
その、迷いながらの一歩一歩が確実に自分を成長させたことに気付けるときが来る。
挫折を乗り越えようと歩むとき、深く沈んだ絶望が、未来を成長させるための希望に変わろうとするときが来る。ほんとうに、奇跡と呼べるだろう。
その成長がなかったら見えなかったかもしれない、自分の目標としていたものの本質、これから歩んでいくべき未来。
どん底から這い上がる力が自分を強くした。と言ってしまえば簡単かもしれないが、そんながむしゃらなことではなく、今までの人生によって物の見え方が変わった、と言えることもできるんじゃないかと思う。
そもそもが、這い上がるためのがむしゃらの力すら、挫折で奪われてしまう。
自分は前へ進んでいるんだ。と、信じられるようになるまで、自分を信じて少しでも歩んでいくしかなくなる。
僕も散々無様で情けない日々だったが、一生卑屈になるくらいなら死んだほうがマシだ、と思いつづけていた。
今思えば、その思いをずっと変えなかったことが僕にとっての前進だったんだ。
日々1秒1秒変わっていく中で変わらない執念みたいなものが、1日を歩みつづけていたんだ。
長い間、執念と絶望の中にいたのかもしれないが、歩みつづけていたおかげで、自分は前へ進んでいたんだということをわかることができた。
無様で情けない様を彷徨いつづけ、自分が成長しているなんて微塵も感じることができないかもしれない。
でも、そこをくぐることでしか見えてこない未来もある。
そして、そこで見えてくる未来こそが、挫折を経験する前に自分が目標としていたものの本質、正体でもあるんじゃないかと感じている。
夢や未来の本質さえ見えてくるようになれば、過去の挫折で何かを失っていても、前へ進む気持ちが少しでも生きている限り、より大きな、あるいは正確な視野で必ず志を取り戻すことができる。
絶望や悔しさに打ちひしがれて何もできない無力な自分を感じていても、そこをくぐり抜けるときには、それを本当の未来への糧とする必要に気付けるようになる。
これまでの屈辱や情けなさを周りと比べずに自分の未来へと受け止められるようになったとき、これからも経験するであろう失敗や困難も全て、自分の未来の成長へと導くことができるようになる。
絶望だけが気になるそんな時も、どこかに希望を。
僕は今でも挫折を乗り越えるため。
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